イタリア語モード
ここのところ「イタリア語モード」じゃなくって、何も書くことが思いつきませんでした。
イタリア語のことを考えてもなかなか前向きな思考が出てこない、、そんな時もあるものです。
そもそもイタリア語は話すと元気になる!なんて言ったくせに、逆に元気じゃないと話せないというのは何とも情けない話ですが、それもそうかも。。ということに最近気づきました。
イタリア語は基本まさに「ローマ字読み」なので、日本人にとってありがたい発しやすい言語と言えます。でも、その分一つ一つの音をはっきり発音するようになるので、それだけ息の量というのでしょうか、おなかから声を出すことも必要になってくるかと思います。
rの巻き舌は、日本人には難しい発音ですが、これもほかの発音より力が入りますよね。
また、だれもが知ってる”Buon Giorno!"や”Buono!は、上下の唇を合わせて”ブ”と音を破裂させて発音します。(言語学の知識はありませんが)口をあけたまま「あ~」というのとは力の入り方が違うような気がします。
これだけが理由ではありませんが、イタリア語はちょっとエネルギーが必要な言語だ、と勝手に私は思っています。
元気がないときもイタリア人はイタリア語を話さなくてはならないでしょうし、何の根拠もないのですが、やっぱりイタリア語はカラカラっとした音が魅力で、くっきりはっきり早口で元気よくしゃべりたいものです。
ぼそぼそしたイタリア語なんて聞きたくないですものね。
1か月もさぼったおかげで、そろそろイタリア語が恋しくなってきました。
イタリア語モードが戻ってきたみたいです。
また、イタリア語の魅力を書き綴っていきたいと思います。
以上、突然の勝手な決意表明でした(笑)
おくりもの
皆さんは「贈り物、プレゼント」は好きだろうか。
私は贈り物をするのは、好きだ、と思う。
ケーキや和菓子を手作りするのも好きなので、誰かに食べてもらえるとうれしいし、友人や知り合いにちょっとした誕生日プレゼントを考えるのも楽しい。
でも、モノをあげるという行為は繊細なもので、特に昨今はいろんな人と簡単につながれる一方で、その距離感もさまざま。
一定の距離感を保つことをよしとする場面も多いと思われるし、いかに「相手が負担に感じない、そして素直に喜んでもらえるもの」を選ぶか、考えすぎると何を選んだらいいのかわからなくなったりもする。
そして、絶妙なタイミングでプレゼントを用意するとなんだかできる女ぶっているとか、女性らしさのアピールとか、見返りを求めているように思われないかと、人目を気にした気の小さい考えも浮かんでしまったりして、贈り物って難しいなあとつくづく思う。
さて、そんな悩める私に大切なことを教えてくれたイタリア語がある。
”Pensierino”(ペンシエリーノ)=ちょっとした贈り物
お土産を表す言葉として、こういう時は一般的な贈り物を表す”regalo"(レガーロ)ではなく、”Pensierino"の方があっていると教えてもらった。
”Pensierino"は、”Pensiero"(ペンシエロ)という言葉にイタリア語で小さいものを表す"-ino"が語尾についたものだが、”Pensiero"がそもそも「ちょっとした贈り物、プレゼント」を意味する。
なので、”Pensierino"はさらに小さなちょこっとして贈り物という意味になる。
そして、”Pensiero"は英語でいう”Thought"にあたる言葉で、「考え」「心配」「気遣い、思いやり」という意味もある。
”Pensare"(ペンサーレ)「考える、思う、心を配る」という意味の動詞から派生した言葉であることも考えると、この言葉は物を贈るのではなく「心遣い、気遣い」とい贈る気持ちを表している言葉だということがわかる。
日本語の「心付け」に近いだろうか。(お金を渡すという意味ではないが)
贈り物とは心遣い、思いやりを贈ること。
イタリア人の贈り物に対する考えが表れている言葉だと思う。
また、用例を見ると「つまらないものですが」とか「たいしたものじゃないけど」と訳がついている。
つまり、”Pensierino"を使うことで、”たいしたものではありませんが”という意味が加わっているのだ。
日本人と同じ。よく「つまらないものだったらあげるな」と言ったりもするが、イタリア人も同じように”Pensierino"という言葉を使って謙遜するのだ。
こういう繊細な気持ちが見える言葉がイタリア語にあるとは驚きだったが、イタリア人の贈り物に対する考えが見えるとてもいい言葉だと思う。
めんどくさい、難しいことは考えずに、素直に自分の気持ちを表すものとして贈り物をとらえればいいのだ。
この言葉に教えられたように思う。
ポジティブに、強く、そして自由に
イタリア語のクラスでは常にPositivo(ポジティーヴォ)=ポジティブでなくてはいけません。
先生にそう言われたわけではないけど、気が付いたらそう考えるようになっていました。
クラスの始めの1週間の出来事を話すフリートークの時間も、昔は”Niente di Speciale"(ニエンテ ディ スペチャーレ)=特にありませんということも多かったのですが、それでは先生は許してくれません。
「どこか行かなかったの?」「おいしいもの食べなかったの?」「リラックスタイムはなかったの?」と、小さなニュースを引き出そうと質問攻めになります。
英語のクラスだと仕事の話に転換されたりもしますが、イタリア語のクラスでは仕事の話はあまり歓迎されません。(先生の個性によるとは思うのですが)
ということで、平日は仕事一色でも、その前の週末の話をしたり、何か見聞きして感じたこととか、自分で夕飯作ったよ、とか少しでもポジティブな話題を探すようになり、
今では自然に頭が小さなポジティブニュースを記憶するようになったのか、クラスで「えっと、、、」と話すことに困ることがいつの間にかなくなりました。
たとえばクラスを無断欠席しても、「Positivoな理由だったらいいわ」と先生は言います。本当はよくないだろうけど。(笑)
まあ、それでも皆さんいつも楽しいことばかり話せるわけではないので、仕事が忙しいとか、職場でこんな問題があるという話題が出ることもあります。
その時は先生は必ず”Forza!"(フォルツァ!)=頑張って!と励ましてくれます。
このForzaという言葉、Forzareという動詞の命令形、動詞そのものは英語のForceにあたる言葉です。
「強いる、むりをして努力する」と結構強い意味なので、意外と励ましの言葉は厳しいわね、ということなのですが、実は私はこの言葉も好きです。
名詞だと”Forza"「力、強さ」という意味なので、”Forza”と言われると、「強く、ね!」と励まされている気がして、弱気になっちゃいけない、強くなろうと言う気持ちになるのです。
「つらい状況を耐えてね」、というよりは、「強くなって乗り越えよう、あなたなら大丈夫!」という、より積極的に物事に取り組む思いを感じるんです。
少々勝手な解釈かもしれませんが。。
クラスの終わりには、今日これからの予定を聞かれます。
ある時誰かが”何も予定がない”というと、先生が"Sei Libero."(セイ リベロ)「じゃあ、あなたは自由なのね」と返していました。
土曜日の午後予定がないなんて、私もそんなことしょっちゅうではありますが、ちょっとしゅんとしてしまいそうな状況、それを見事に一瞬でポジティブな言葉に置き換えた先生。
確かに、先生にしてみれば土日はレッスンが詰まっていて、それこそお休みで予定がない自由は本当にうらやましかったのかもしれません。
そう言われてみると、”Niente di Speciale"な日なんて本当はないはず。
何もない時も「自由」である幸せを感じられるPositiveな心があれば。
いつもPositivo=ポジティブに、何か問題があってもForza!=強く頑張って乗り越え、そして自由を楽しむ。
私がイタリア語を学ぶ中で教わった、人生を楽しむための大切な考え方です。
私のお気に入りの言葉
イタリア語は濁った音が少なくて、軽く明るく耳に心地よく響きます。
rの巻き舌はうまくできなくても、音にするだけでなんだか心も軽くなるような、そんな言葉です。
私が好きな、そしてイタリア語らしいな~という言葉あります。
Chiacchierare キアッキエラーレ、おしゃべりするという意味の動詞です。
Chiacchierone キアッキエローネでおしゃべりなという形容詞にもなります。
毎週土曜日のイタリア語のレッスンでは、毎回出てくる言葉。
大体私はクラスに一番乗りなので、先生と今週何があったかおしゃべりを始めていると、次々とほかの生徒さんが到着します。
先生は必ず”Stiamo chiachierando..."( スティアーモ キアッキエランド)「私たちは今○○についておしゃべりしてたのよ」と後から来た生徒さんに説明します。
キアッキエランドという進行形になるとさらに、だと思うのですが、音が弾んでいて、きゃっきゃと楽しくおしゃべりしている雰囲気そのままの言葉だなあ~と聞くたびに微笑んでしまいます。
音が好き、発音がかわいいというのは、あくまで個人的な感想ではありますが、
Pronuncia (プロヌンチャ)=発音
Pancia(パンチャ)=おなか
のようなチャで終わる言葉もかわいくてお気に入りの言葉です。
音がかわいい、きれいという言葉を挙げたらきりがないほど。
フランス語も音が美しい言語と言われますが、私にとってはイタリア語も美しい音を持った言語だと思います。
イタリア語との出会い
イタリア語を学び始めたきっかけを書いておこうと思います。
それは2002年5月、日韓W杯の年、そして私の20代最後の月でもありました。
4月にそれまで働いていた会社を辞め、次の仕事を見つける前にかねてから行きたいと思っていたイタリアに一人旅に行くことに決めたのです。
宿を決めないでヨーロッパを回ったというバックパッカーの友人の影響を受けたのか、ホテルは現地で決めよう!と思い立ち、最初はベネチア、その後フィレンツェに移動、フィレンツェからミラノに戻って帰ってくる、という大まかな予定だけを決め、両親の心配もよそに大きなスーツケースを引きながら2週間の旅に出発したのです。今思えば、あれが私の”衝動的な一人旅”の記念すべき第1回目でした。
思い立ったら勢いで一気に計画して、手配して、飛び立つ!
実は大丈夫かなあ~とびくびくもしていたのですが(笑)
最初に訪れたのは水の都ベネチア。電車の駅の近くのエレベーターもない古いホテルに泊まったのを覚えています。
せまい階段の踊り場にネコがごろんと寝ているような、のんびりした雰囲気が好きでした。
ある朝、朝食をすませて部屋に戻ると、従業員のおばちゃんたちが何人か私の部屋に集まっていました。どうやら天井の電気を交換してくれていたようだったので、「Grazie(グラツィエ)」というと、一人のおばちゃんの顔がパーッと明るくなり、「Parli Italiano?(パルリ イタリアーノ?=イタリア語話すの?」と嬉しそうに聞いてきました。
(まだ当時はイタリア語を勉強していなかったのに、なぜか理解できたんですよね。)
グラツィエとブオーノはだれだって知ってるよ~と焦って、「Un'po.(ウン ポ=少し)」と答えましたが、実は全然しゃべれない状態。。
でも、その時の嬉しそうなおばちゃんの反応が観光地なら英語ができれば問題ないと思っていた私に「イタリア語でコミュニケーションを取りたい」という気持ちを芽生えさせ、現地の言葉で会話する喜びを教えてくれたのです。
次に訪れたフィレンツェでは、おじさんにいっぱいナンパされました。
ベネチアには、当時ドイツで働いていたアメリカ人の友人が会いに来てくれたのでフィレンツェでいよいよ一人になった私は寂しさもあって、おじさんの誘いを断りきれず、今思えばちょっと危なかったなと思うのですが、警戒しつつ、無料で似顔絵を描いてもらったり、カプチーノやジェラートをおごってもらったり、というお得な出来事もありました。みんな声かけてくる時の文句が「来年日本に行こうと思っているんだけど、どの季節がいいかなあ?」とか、「どこがおすすめ?」とか、思わず答えてしまうような質問で、、さすがうまいなあ。
そして、フィレンツェでも、イタリア語を学ぶきっかけになる出会いがありました。
イタリアの伝統的な印刷やマーブル紙を扱っている文房具やさんのようなお店で働いていた、おそらく同じくらいの年の日本人の女の子。
彼女はまだイタリアに住んで半年と言っていたと思います。それなのにイタリア語がペラペラで、とても自然に話していました。彼女は語学のセンスがあるのだと思いますが、イタリア語を話す日本人を見て、私も話したい!という気持ちがますます強くなったのです。
そんな刺激を受け、ミラノに着いた頃には、持っていた旅の会話集に出ている簡単な文で会話にトライするようになっていました。
”Vorrei Provare"(ヴォレイ プロヴァーレ=試着したい)
”Un biglietto dell'autobus, per favore"(ウン ビリエット デッラウトブス ペル ファボーレ=バスのチケットを一枚ください)
など。。
宿泊していたホテルでもちょっとした交流がありました。
朝食時にコーヒーを持ってきてくれるおじさんが私のことを覚えてくれて、初日にカフェラテを頼んだら、翌日は聞かなくてもカフェラテを持ってきてくれ、次の日はポットで、その次の日は大きなポットで持ってきてくれるようになりました。
最後の日に「今日帰るんだ」ということを伝えると、「次はイタリア語がしゃべれるようになって帰っておいて。その時は、もっと大きな部屋に泊まるんだよ」と言ってくれました。
一度、私が荷物を置きに部屋に戻った時に、おじさんがミニバーをチェックしてるところに遭遇したので、私が泊まっていた部屋を知っていたのです。
ささやかなやり取りでしたが、今思い出してもほっこりしてしまいます。
初めてのイタリア一人旅では、一人で外でディナーもできず、実はあまりおいしいものを食べた思い出がありません。
記憶に残っているのは、市場で買ったオリーブ、立ち食いのカルツォーネ、フィレンツェのおじさんたちにごちそうになったカプチーノやジェラート、そんなちょこっとし
イケメンには出会えず、話したのはおじさんばかりだったし。
でも、楽しかったんですね。
2週間の一人旅は私にとっては大きな冒険で、そこで経験したことはすべてが今でも大切な思い出です。
そんな素晴らしい2週間を過ごして、帰国した時には自然にイタリアを勉強しよう、という気持ちが芽生えていました。
そして会社を辞めたばかりで無職なのに、仕事を探し始めるよりも先にイタリア語を習い始めたのです。
まさか10年以上も続くとは予想していませんでしたし、がむしゃらに勉強するほどモチベーション高く続けてきたわけではありませんが、元来飽きっぽい私がここまで続けてこれたのは、イタリア語から学べるイタリア人の明るい考え方や人生の楽しみ方の学びが、私にとって必要なものだったからでしょう。
イタリア語から学んできたこと
言葉は使う人々の文化や生活、時代を映し出すもの。
10年以上イタリア語を学んできて、実感していることです。
イタリア語は、イタリアの人々のイメージそのまま、音も軽くて明るくて、発音しているだけでも元気になれる不思議な言葉。
そして、言葉の意味や使いかたにも、イタリア人のポジティブな生き方が表れています。
イタリア語を学んでいると、イタリア人は人生の楽しみ方を知っているなあ~と感心することがたくさん。その発見の楽しさで今まで続けてこられたのだと思っています。
イタリア語を習い始めたばかりの頃、当時習っていた先生が、
「イタリア語には失恋って言葉ないかも~。なんて言うのかわからないわ」と。。
ええっ。失礼ながらプレイボーイのイメージが強い国、モテ男に振り回されて涙する女性がいないとは思えないし、どんな人生にも出会いと別れは付きもの。
男女の別れの悲しみを表す言葉は本当にないのだろうか。
(若い先生だったから、本当に失恋の経験がなかったのかもしれませんが)
でも、失恋という言葉がない世界があるなら、私も行ってみたい!
ところが、辞書を引いてみると、失恋の伊訳は”Cuore Spezzato"とあります。Cuore(クオーレ)は心、ハート、Spezzato(スペッツァート)は粉々になった、壊れたという意味なので、心が粉々になっている状態、英語のBroken Heartと同じ。
言葉としては存在するのですね。
でも、やっぱりイタリア人の失恋に対する考え方は日本人のそれとは違うと思います。
今習っているE先生には、以前ほんとに失恋した時に「一度は泣いてもいいけど、チョコレート食べて立ち直りなさい」と明るく励まされ、失恋した友達のやけ酒に付き合った話をした時も、「そんなの(男女がお別れすること)イタリアじゃ普通のこと、やけ酒の理由にならないわよ」と言われました。
へえ〜、イタリアの人ってほんとに明るくて前向きだなあ〜。
いつまでもうじうじしているのがバカらしくなっちゃいます。
イタリア語の失恋の言葉もよく考えてみると日本語の失恋とは違う。
『失恋』という言葉は“恋人を失う”と言う意味だけど、『cuore spezzato 』は、“傷ついた心”と言う意味。
失ったものは取り戻そうとしても思い通りにならないけど、傷ついた心は自分で癒すことができる。
そう、チョコレートを食べて(笑)
失ったものに焦点をおくのと、自分の心に焦点を置くのでは、恋人とお別れする、とか好きな人に振られるという事実との向き合い方が違いますよね。
去ったものに対して恨み言を言ったり、自分の行動を後悔したりと言う時は、過ぎ去った過去を見ている。
傷ついた心をどうやって嫌そうか考えて、甘い物や美味しいものを食べて見る、これは今、そして未来を見ているんじゃないかな、と思います。
イタリア人の前向きな生き方が表れている言葉、と言えるのではないでしょうか。
とはいえ、やっぱり私はイタリアの人々には失恋と言う概念はないのでは、と思っています。
少なくとも日本語の失恋という言葉が意味するところの概念は。
いつでも自分を楽しませるこポジティブさをイタリアの人々は教えてくれます。
言葉や使い方に垣間見えるイタリア流人生の楽しみ方、そんなイタリア語についての発見をこのブログに綴っていこうと思ってます。